金箔を製造する「箔打機」の製造を行う浅勝鉄工所の前での写真。1948年、社長の祖父・勝二は、兄が経営する「浅谷鉄工所」から独立し、金沢市昌永町に『浅勝鉄工所』を設立。写真は1965年、会長・浅谷宏一が入社間もない19歳の頃(写真後列左) 前列右から2人目が祖父の浅谷勝二。
浅谷勝二が脳溢血で倒れ、息子の浅谷宏一(会長)が急きょ兵庫県西宮市の会社を退社し、浅勝鉄工所に入社。写真は結婚式後、新婚旅行に向かう金沢駅で撮影された様子。
浅勝技研工業KKに社名変更し、工場を金沢市浅野本町に移転。工場の大きさも30坪から80坪となり、新規にシャーリング・ブレーキ・フライス盤を導入。更に防音の国家資格を取得し、防音工事も手掛ける。
会長・浅谷宏一は会社を社員に譲り、妻の美代子(前専務)と2人でゼロから再スタート。配管支持金物制作を手掛ける“金沢ブラケット”を設立。妻の美代子も配達・溶接・ブレーキ等の工場業務の傍ら、経理を一手に引き受け浅谷家は大忙し。写真は幼少期の社長兄弟を撮ったもの。左上が社長の浅谷哲生。真ん中の可愛らしい子の正体が実は……
全員20歳の若者7名が同時に入社。金沢市浅野本町に株式会社ビー・ケー・テイを設立。本社機能は会長の自宅である金沢市浅野本町に残したまま、製造部門は能美郡川北町に工場を新設した。社名のビー・ケー・テイは配管支持金物という意味の「ブラケット」から由来する、前身“金沢ブラケット”の頭文字である。
本店を金沢市浅野本町から工場がある能美郡川北町に移転。写真は工場での作業風景を撮影したもの。1つ1つを丁寧に扱うことを今でも心がけている。
ステンレスのレーザーカットを主体としたジョブショップは当時まだ非常に珍しく、酸化被膜のない窒素切断が大きな反響を呼んだ。会長が国内で初めて窒素発生装置を導入し、県外企業からの受注も盛んになった。
ステンレス・アルミ以外のカットに力を入れる目的で導入。ステンレスやアルミの厚板はもちろん、木材・石材・ゴムなど材質を選ばずカットできるという点から、期待の大きかったウォータージェット加工機であるが、最初の2年は仕事が無かった。
ウォータージェット加工機の新規導入やレーザー加工機の増設に伴う本社工場内の作業スペースの確保や、大雪による出荷停止のリスクから、県外工場進出を視野に入れ、そのモデル工場として片道1時間程度の立地で富山県高岡市に工場を設立。設立当初はステンレスの薄板の専門工場であった。
お客様からのご要望が多かった鉄材の切断を開始。ステンレス製品をすべて本社工場へ集約し、富山工場は鉄専門の工場に生まれ変わる。
白山市の山島工業団地内に本社工場を移転。2棟あった工場や離れた事務所棟を一つに集約し、作業効率を大幅に改善することが可能になった。豊かな自然に囲まれ、社内からも広大な田畑や、白山連邦の山々を一望することができる。BKTの新たな歩みが始まる。
2020年で私たちBKTも設立から30年。これまでも、そしてこれからも。私たちは“思いっ切り”の精神を大切に歩み続ける。